
?相貎威猛にして眼光特に炯々たり。
?侍者として天女形人物(吉祥天文は弁財天の類)・乾闥婆その他を従へ、嬰孩と鼠と添ひたる例あり。
さらに、仏教史の碩学・松本文三郎博士は、兜跋毘沙門天の様々な問題を「トバツ」という語源に集約して、結論として次のように要約された。〔注?。〕
?兜跋毘沙門天の形像は隋唐以前に西域地方に居住した一民族(イラン系仏教信仰者)によって作られ、この時は地天のみが足下に置かれ、単に昆沙門天と呼ばれていた。
?中国には唐・大歴年間(七六六〜七九年)前後にこの図像が将来され、その直後にトバツ形を説く儀軌や縁起が製作され、安西城説話によって城門楼上にこの像を置くようになった。
?中国に将来されるとこの像の足下に地天のほか二兎が置かれ、宝冠も鳥冠に変わった。
2かぺいし
?日本へは空海がトバツ形を説く『摩訶吠室羅末那野提婆喝羅闇陀羅尼儀軌』を円行が『北方毘沙門天王随軍護法儀軌』を持ち帰り、地天と二兎の毘沙門天像が伝わった。
?「トバツ」の名称は中国の北宋末期か南宋初頭に唱えられたが一般化せず、これが世に知られるようになったのは「大梵如意兜跋蔵王呪経」が偽作されてからで、日本へも平安末期にこの経が渡来し『吽迦陀野儀軌』が捏造され、一般に普及した。
?「トバツ」という語は恐らくチベットより輸入されたもので、ラマ僧が着る冬期の外套様服を意味し、トバツ形毘沙門天像の武装がこの外套様服に似ていることから兜跋毘沙門天と言われた。
以上が、一九三〇年代に沸騰した兜跋毘沙門天研究の主たる成果であるが、その後、偶然にも約三十年おきに研究の気運が盛り上がっているように見える〔注(6)〕。そして今、兜跋見沙門天研究は新たな局面をむかえている。
Ph・グラノフの説をふまえた宮治昭氏は〔注(7)〕、兜跋毘沙門天の図像は、多聞人の出自であるクベーラ・ヤクシャから継承されるインド系の財宝神の図像と、「帝王の栄光」を象徴するファロー神に代表されるイラン系の帝王神格化の図像とがクシャン朝において混淆し、ガンダーラ仏伝浮彫の「四天王捧鉢」中の特殊な鳥翼飾りの付いた冠とイラン風マントを着た毘沙門天像(図?)ができあがり、それが六〜七世紀に中央アジアで復興し、財宝神と武神の性格を合わせもつ、「世界支配者」としての帝王的なイメージの神像に発展したものと考えられた。さらに田辺勝美氏は〔法?〕、兜跋毘沙門天像の起源をガンダーラ仏伝浮彫の「出家踰城」に描写された二種類の毘沙門天像の中のイラン風のタイプに求め〔図?〕、また、兜跋毘沙門天像の頭に付く一対の翼をファロー神を介在としてギリシアのヘルメス神あるいはローマのメルクリウス神の翼に由来するものと論じられた。なお、「トバツ」の言葉は、東トルキスタン、特にホータン国を意味する占代トルコ語のtubbat(tabbat tubut)を音写したという説が現在有力である。
このように、現時点まで兜跋毘沙門天像に関する様々な問題が論じられてきたが、しかし、私は兜跋毘沙門天とは、やはり毘沙門天と地母神が合体した点に本質的な意味があり、その問題点を明らかにするには、両者の起源に立ち返って考えなければならないと思っている。そこで、今回は最後に毘沙門天自体のルーツを探ってまとめとしたい。

?中インド・パールフト欄楯クベーラ・ヤクシャ像
●クベーラ・ヤクシャ●
元来、毘沙門天とはインドのサンスクリット語Vaisravana(ヴアイシュラヴァナ)が訛化し漢語に音写された言葉である。また、これを意訳したのが、「普く聞く」(広く名の聞こえた。)=多聞(天)であるので、毘沙門天と多聞天は本質的には同義である。このヴァイジュラ
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